最近 2 ヶ月間、新しい記事を書いていません。自分が優先しなければならないことが増えたため、やりたいことはずっと停滞していました。実際にはほとんど進歩が見られず、少なくとも明白な進歩は見られませんでした。
この 2 ヶ月を振り返ると、特に深い印象を残したことはないようですが、自分と周囲の主観的な認識の関係に何かしらの変化が生じたようで、心境もかなり混乱しています。近くにいる人も遠くにいる人も、中間の人たちは距離ではなく「障害」と感じられます。以前はできたことが今は続けるのが苦しいようで、もっと時間が欲しいと思っているのに、多くの余暇が知らず知らずのうちに過ぎ去ってしまいました。
時間について話すと、昨日から自分のお気に入りの個人サイトを一つずつ訪れています。その中で、午後のお茶の軽音部というサイトに次のような一節がありました:
ブロック状に、時間を規則正しく割り当て、計画的に、目的を持って時間を使う。例えば、この 1 時間は本を読む、次の 1 時間はアニメを追う、その次の 1 時間は文章を書く。一つの時間帯には一つのことに集中する。
無規則な分子のように、気ままに行動するのではなく、2 ページ本を読んだら、知識を得るために知恵袋を見たり、アニメを追ったり、音楽を聴いたり、スマホのゲームをしたり。夜寝る前に、一日の収穫を振り返ると、何も思い出せないし、何も覚えていない。今日の時間がどのように過ぎたのかもわからない。
—— 時間の形状 - 午後のお茶の軽音部
以前の日々は、自分が時間を分子状に過ごしていたようです。自分が何をするかは分かっていても、生活に委ねられた時間は結局分子状になり、情報の流れの中で思考や概念がぶつかり合っています。何かしらのものは残っているようですが、まだ沈殿していない状態で舞い上がっている感じで、ほとんどが消え去ってしまいました。よく考えると、継続していることはあまりありません。習慣になれば良くなるかもしれませんが、今のところ頭の中には時間表が浮かんでいます。
一方で、「コンテンツプロバイダー」として、業界では「垂直」が共通認識のようですが、自分自身は「人」として、興味のあるさまざまな分野で「水平」に広がりたいと思っています。ただし、自分自身は何も持っていないようなもので、他のサービスを提供している人たちとは異なり、自分の蓄積を「使う」ことができていないようです。小さなコミュニティ向けのアプリを開発しているとはいえ、今でも要求分析や設計についてはまだ何も進んでいません。おそらく手元の仕事が終わった後に考えることになるでしょう。
明日の自分は何を得たいのか、何をしたいのか、考えてみたいと思います。